聞き書きプロジェクト
聞き書き・・・
学生と恩師
二人のあいだでつくられる
新しい物語
聞き書き・・・
学生と恩師
二人のあいだでつくられる
新しい物語
「聞き書き」
学生と恩師
二人のあいだでつくられる新しい物語
作品をつくっていると
恩師の想いが
私のものになってくる
この不思議な感覚は
聞き書きでしか味わうことができない
私の教職人生は
失敗ばかり
誇れるものなんてないと思っていたけれど
今までやってきたことが
報われたような気がした
ありがとう
語り手:村山豪
聞き手:佐藤朱音
村山豪です。出身地は鶴岡です。高校までは鶴岡で育ちました。それからは、山形市に住んでいます。これまでの勤務校は、東根市立東根小学校、東根市立東根中部小学校、山形市立山形小学校、山形市立金井小学校です。
○長い目で子どもの成を捉える
例えば、かけ算九九、あるでしょ?1の段から9の段まで、例えば単元で10時間の扱いだとするでしょ?10時間で覚えられたら、すごいよね。別に、2年生が終わる頃に、全部かけ算九九言えてればいいわけでしょ。別に。なのに、なんていうかなあ、先生って、その単元の時間以内に覚えさせなきゃいけないとか、なっちゃうじゃん?そんなの先生のエゴだよね。覚えられない子にとっちゃあ、辛いじゃん。でも2年生までに覚えればいいんだってこっちが踏んでれば、別にいいじゃん。最悪、6年生の時までに言えればいいんじゃねとかって思うのよ。そこまでいくとあれだけど、でも、その単元の与えられた時間の中だけで覚えなきゃいけないなんてのは、とらわれすぎというか。だってそれぞれ違うじゃん、子どもは。そんなふうに長い目で子どもの育ちを見るかな、学級の育ちもね。
○子どもたちが「自分たちでやる」ことを目指して
先生としては自分でやった方が楽だし、自分でやった方が早く進む。でもね、やっぱり目の前にいる子どもたちのこと考えると、敷いたレールだけに乗っかってるよりはね、自分たちでやった方がいいかなって思う。多分自分が持っている知識や技術を子どもたちにあたえて、子どもたちがそれを使いこなせるようになれば、それこそ、生きて働く力になるのかなって思うので。持っている知識や技術は全て与える。途中から、子ども達に追い越されちゃうんですよね。子ども達の方が柔軟だし、考え方も柔らかいし、子ども達の方が頭がいいので。途中からはついていくことで精一杯になることが多くて。子ども達に負けないように頑張んないとなって思うようになる。
○子どもの変化を信じて価値づける
持ち上がりでないクラスの担任の時の1学期は、子どもたちの姿を見取ることにほんとにすごく必死になる。地獄です。1学期は、何もないところからのスタートなので。1学期は、その自分たちでやってくんだよっていうこととか、先生は先生だけど、その、教えたりもしないよとか、みんなが力を合わせて学んでいくんだよとか、判断は自分たちだよとか、そういうことをきちんと文脈に沿って、その都度その都度子ども達の様子を見ながら支援、声がけしていったりする。1学期の4月、5月、6月、7月の4ヶ月くらいは。ひたすら子どもを見て、こういうことはいいんだよっていうモデリングを探す。こういう姿になってほしいことを語ると、健気にやってくれる子が出てくるんだよね。そういう時に、その文脈でエピソードを語って、価値のあることだってことを他の子ども達に伝えたり、お便りにして他の保護者にも伝えたりする。例えば、授業で「ここもう一回言ってくれる?」とか、「〇〇君が言いたいことってこういうこと?」とかって子どもが言ってたりすると、「それすごくいいね、そうやって言ってくれるとみんなも話しやすいよね。」って伝えるとか。それがだいぶ子ども達の中に染みてくると、3学期くらいになると一気に「ぼん!」と、こう子ども達が変化してくるのをちょっと実感するかな。「あ、ちょっと変わってきたかな。」って。ある時を境に、学級の文化になる。いつの間にかあたりまえになってくる。「これをすることっていいことなんだな」「これをすることによって学級がうまくいくんだな」って実感すると、学級の文化として根付く。いつのまにか変わっていくんだよね。だからすごい長いスパンで見てるね。3月31日の時に何か変わってればいいかな。人間そんなに変わんないしね。そんな簡単に変わるもんじゃないから。
○子どもの可能性は無限大
大事にしてたことは、子どもに線は引かないってこと。子どもはこれくらいしかできないとか、っていうふうに思わないってこと。きっともっとできるとか、いやもっとできるだろうなとか、子どもの可能性は無限大だよなとか。線を引くのは教師の側だよな、こんぐらいでいいかって思っちゃうとそれしかできないから、子どもの能力に限界を決めない、なんてことは大事にしてたかな。例えば総合的な学習だったら、無理だろって思ったら無理だよね。担任の先生がこれ無理でしょって思ったら無理だけど、担任の先生が無理だと思わなかったら、案外子どもってやれたりして。なんか、子どもが頑張ると、周りの大人も頑張ってくれたりして。それで、できちゃったりすることが多くて。だから、教師が無理だって思っちゃうと無理で。その無理ってハードルが下がれば下がるほど、子どもは伸びない。だから、無理だって思わなければなんでもやれるかな、何でもやるかなっていう感じで思ってるかな。子どもってすごいよ。子どもって大人より絶対頭いいし。大人より絶対優しいし。大人よりよっぽど協調性あるし。子どもは大人より経験が少なかったり、語彙力がなかったりするだけ。よっぽど子どもの方ができると思うな。って思います。
(2020年11月18日)
今回の聞き書きを通して、学部3年の教育実習の時には見えなかった先生の想いを知ることができました。「子どもを信じる」と口で言うことは簡単ですが、子どもを本当に信じることは、子どもたちが成 することや子どもたちが持つ可能性を信じ、子どもが変わらなかったら教師の方から関わり方を柔軟に変え続けることであると学びました。私は6年5組村山学級の素敵な子ども達の姿を見て小学校の教師を目指しました。私も子ども達の持つ可能性を信じ続け、子ども達の姿を価値づけることのできる教員になりたいです。
語り手 田中靖士
聞き手 佐藤朱音
田中靖士です。出身地は、山形県の村山郡朝日町です。これまでの勤務校は、河北町の谷地中部小に3年。そのあと、置賜、白鷹町の荒砥小学校に異動して3年。そしてまた、地元村山に戻ってきて、朝日町立五百川小学校に3年。そこで社会教育主事という資格をとって、次の年、山形県の朝日少年自然の家に異動になりました。研修主事というポジションですね。そこで3年。そして、山から降りてきて、左沢小学校で6年。ここで朱音さんの担任になりました。その後、寒河江市の高松小学校に7年。その間、山形大学の教職大学院で2年間勉強して、その後朝日町教育委員会に3年目になります。
○お手本がない図画工作の授業
私が、図工が好きだってのがあってね。エプロンかけてね。なかなか見ないんだよね。エプロンかけて本気で図工の授業してる先生ね。アートは最高に面白いよ。流木拾ってね、布絡めてね。なんかやったよね。オブジェ作ってね。それを下駄箱の上に並べたり天井から吊るしたりしてね。勝手に左沢小の昇降口を展示場にしちゃった。「こんなことする先生いるんだ」って、多分、子供たちもそうだけども、保護者なんかもそう思ってたかもしれないよね。なんか、あんまりいないタイプだって。かといって、私、全然美術の専門ではないし、自分で創作活動するわけではないし。見るのは好き。美術館巡りはするかな。
○アートで子供の心を解放する
アートって大事なんだよ。STEAM教育(Science, Technology, Engineering, Art,Mathematics)なんて聞いたことある?「A」って「アート」。他は全部理数系で並んでるんだけど、アートが残った意味をね、考えて欲しいね。教員になってみると、なんか学級が落ち着かないな、とか、なんか荒れてるなっていう時、「そういえば、図画工作潰れてたね」っていうことがある。学芸会の前とか、運動会の前とか、なんかバタバタしてて、図画工作が潰れてたりすると、学級が騒々しく、慌ただしく落ち着かないみたいになる。「あ〜ごめんな、図工潰れてたね」って図工やると、結構図工って子供たちが心を解放して表現するから。図工が学級経営のバロメーターなんですよ。図工で叱るは絶対にないから、「お〜、いい表現だね」「面白いね」ってしか言われないしね。だから図工ってとても大事で。図工って、教師がどれくらい、どこまで許せるかなんだよね。子供の表現の範囲を狭めちゃダメなのね。「この表現面白いね、この表現いいね」ってどんどんどんどん伝えられるよね。教師が持ってるイメージや発想を超えて、子供達は上を行くからね。
○「そうきたか」の連続
図工ってね、「そうきたか」って話だよね。「そうきたか」にいっぱい出会えるのが私は図工だと思うのね。色んな教科でも「そうきたか」には出会えるんだけど、一番出会えるのが図工なんだよね。すごくこちらの表現を超えてっから。子供の表現って。鑑賞の時間も、あれだけ見事な作品が廊下に並ぶんだから、そのよさに気づいて褒めてほしいよね。そして、国語や算数では見せない凄さを図工で見せたりする仲間がいるじゃん。そうすっとそれをきちんと子供同士で褒めてほしいし。国語や算数で輝かなくったって、図工で輝けばその子供は楽しく学校に来るし。なんかで輝けばね。だから全ての教科、手抜きはできないでしょって話。だって我々は国語や算数でだけで輝く子供だけを育てているんじゃないもん。だから手抜きはできないよね。
○「本物」の教員へ
ある人にね、「なんか田中先生の教えって後から効いてくるね」って言われたことがあって。そこなんだよね。教育の成果なんていうのは担任している1年間とか2年間だけで出ないって。担任しているときに気づかなくても、自分が親になって子供を育ててみて、あっ、あの時の田中の言葉がふと蘇ってくる的なことを言われたことがあるんだよね、後から効いてくるっていう。だから、その辺をね、私は大切にしている。なんか人気取りみたいな優しさは不要だと思ってんのね。子供って、偽物と本物を見抜く力が抜群にあるから、すぐ子供って見抜くのね。「あっ、この人って偽物だって」のと「この先生は本物だ」っていう人を見抜くから。「こいつって本物だよね」って思われたいっていう。「その本物だよね」っていうことはね、どういうことなんだろうって話だよね。「なんかこれって私たちのことを思って言ってんじゃね?」とか、「あの時のあの先生の言葉ってこういうことだよね」とかって、後からじわじわくるっていうかなあ、そういうもんだろうなって思っている。今だけ、目先だけ見てなんかどうこう言ってほしくないなってのはあるね。
(2020年11月18日)
私の田中先生との出会いは、小学校5年生の時でした。先生の面白い授業はどれも私の中に強く印象に残っていて、特に図工の授業は、家族と一緒に不思議な素材の布や、使えそうな木を探しに行くほど熱中していた記憶があります。来年春から小学校の教員になる今の時期に、あの時の田中先生が、たくさんの子供たちを輝かせる関わり方をしていたこと、優しさを前提とした厳しさを持っていたこと、私たちの幸せを追求していたことが当時の先生の印象とつながり、心が温かくなりました。「本物」の先生と小学生の時に出会えてよかったと心から思います。
語り手 佐藤卓生
聞き手 浅野里菜
〇子どもとかかわる日々
佐藤卓生です。出身地は山形です。
これまでの勤務校は、新採から10年間は東根市立神町小学校で、それから11年年間が附属小学校、3年間山形六小、5年間山形四小、今の山形東小に勤めて3年目です。
子どものころは、いろんなものに興味を持っていろんなものを見る、っていうことをずっとやってきた。ロッククライミングとか釣りとか鉱物採集とか。だから、子ども時代は、一人でいろんなことをやっていたから、学校にそぐわなかったね。でも、先生たちに良くは見られなかった子ども時代が、今、すごくプラスになっている。割と早い段階から子どもが書いた文章であるとか、子どもが話していることであるとか、子どもの立ち振る舞いとか、そういうものを見ながら「この子は何を考えているのかな」と見ようとはしていたと思う。
子どもが好きか、と聞かれたら好きじゃないよ。でも、例えばうちのクラスの○○さんが好きか、と言われたら好きだよ。固有名詞で付き合っているんだから、相手が何を考えているのかなとか、どんなことを好んでいるのかな、とかを考えるのは普通でしょう。それは、特別なことじゃない。
〇子どもを見るということ
僕の中では、子どもが育つようにするのが授業、学校教育だと思っている。でも、子どもが育つためには子どもが見えないとだめでしょう。子どもが「見える」ってどういうことかなあっていうと、子どもを見て「見える」って思ったら多分見えてないんだよね。たぶん僕の感覚から言うと、子どもの肩ごしにいてさ、同じ方向を見て、子どもが見ている世界を捉えることが子どもを見るっていうことだと思うんだよな。子どもが、友達とか、学校とか、あるいはモノとかをどのように捉えているのかな、っていうのが見えてくるようになるのがまず第一。子どもが、自分自身を含めての周りの世界をどう見ているのかな、っていうのをどれだけ見られるか、っていうのが教員の勝負だと思うけどね。かっこよく言えば。
〇子どもの世界を見る
学校は、色々な生活場面で子どもの育ちが現れるでしょう。掃除とか給食の準備とかさ。あとはそうだなあ、秘密だったけど、僕ねえ、毎日あることをやってたんだよ。
朝、子どもたちが学校に来るでしょう。子どもが靴を履き替えるでしょう。そのあと僕ね、下足箱を見ていたんだ。子どもたちが履き替えた外靴をどうやって入れているのか、にその子の一日が現れるんだな。
今持っている三年生はね、一年生の時から見ているから、僕がそんなことしているのを途中で気づいたんだね。だからねえ、子どもたちの中から誰かが下足箱を見に行く。誰かが見に行って、そしてほら、少し靴が乱れている子がいるでしょ。そしたら、教室に戻って「〇〇くん落ち着いてないよ」って言ってそろえさせに行く。そういうところに気を配れるようになっているか。子どもたちが、どれだけ自分の身の回りに意識を向けられるか、意識的に見ているか、だよね。
〇子どもが自分で考えて判断する
僕、絶対に使わない言葉があるのよ。「子どもになにかをさせる」と絶対言わないの。使役形でいわない。「子どもが~できるようになるために僕はこうする」っていう言い方をするようにしている。これは意識してしているね。「子どもにやらせる」ことでなく、「子どもがやること」に意味があるので。
今うちのクラスで、ことわざと故事成語とかやってるわけ、国語で。それで、学校の図書室にそれだけのことわざ辞典とかがない。そうすると子どもたちは、コンピュータールームに行ってネットで調べたいわけだ。だと、子どもたちが、勝手に職員室に行ってさ、コンピュータールームの予約をしてきてさ、朝、教室に行くと「先生、今日、あの1校時の国語は4校時になりました。」とか言ってくる。「なになになにそれ」、みたいに焦るけど。育ってきているなと思うね。
教員になったからには教員のプロにならなきゃいけないな、って思っているけど。子どもに頼りにされず、若干小ばかにされながら、「いつも一緒にいるけどまあ一緒にいてもそんなに心地悪くはないなあ」くらいが最高かな、とは思っているね。なかなかそこにはたどり着かないけど。だって修行だもん。
(2020年11月13日)
今回、憧れの卓生先生にお話を伺うことができ、教師は教える・指導する仕事とばかり思っていた私の考えが変わりました。子どもと教師は、教える・教えられる関係の前に、お互いに関わっている人同士であると学びました。だからこそ、教師という存在は子どもにとって一人の相手として、身近に感じるのだと思います。卓生先生のように、子どもの世界を見るという段階に達するにはまだまだ修行が必要ですが、子どもたち一人ひとりを「見る」ことのできる教師になりたいと強く感じました。
語り手 内海泉
聞き手 上林エレナ
●内海泉という教師
私は内海泉です。出身地は宮城県仙台市で大学は宮城教育大学の教育学部です。私は小学校に29年勤務し、この3月に退職をしました。現在は、初任研のあと補充をするため、週1日程度退職当時の学級に入り、授業させてもらっています。
●できない、わからないという気持ちに寄り添える教師
宮城教育大学に入学して、体育コースに進みました。そこで、中学や高校の教員を目指す体育専攻の学生と一緒に体育の実技を受けることになったんですね。自分は体を動かすことが好きで、割と運動は得意な方だったので安易に考えていたけど、実際に授業を受けてみると、体育専攻の学生との差は大きくて、毎時間肩身の狭い思いで、出来ない子がどんな思いでいるのかを思い知らされた。私は、できない子やわからない子がどんな気持ちでいるのかを知らないまま、教師になろうとしてたことにすごく気付かされました。
単なる「いいよ、どんまい、どんまい。」なんて気休めの言葉ではなくて、できない子わからない子の「できるようになりたい、わかるようになりたい。」という気持ちに寄り添って、できる道筋や方法をきちんと示してあげられる、そんな教師になりたいと本当に思いました。出来るようになりたいと子や、つまずいている子たちの気持ちに寄り添う。言葉では「寄り添う」って簡単だけど、ただ「頑張れ」っていうだけではなくて、出来るようになるためには何が必要なのかを、いつも本気で考えられる教師でいたいと思うようになったきっかけになる大学での出来事でした。
●学級通信に込める担任としての思い
学級通信は担任の思いをおうちの方や子どもたちへ伝える大切なお手紙のようなものとして読んでもらえたらなと思っていました。
お便りの題名は、元教師で歌手の中山譲さんの曲名からいただくことが多かったです。子どもたちってできないことにしゅんと落ち込んだり、忘れ物ばかりしてだめだなと感じたりが多いかなと思うんですが、つい教師なので「頑張ろう」という言葉を言っちゃうけど、頑張りすぎている子たちに「もう頑張らなくていいよ、あなたは十分頑張っているよ」みたいなメッセージを伝えたい、そう思って通信を書いていました。中山譲さんの曲の根底にある、無条件で子どもたちを愛する、「いつでもあなたの一番の応援団!」そんな思いを、私も子どもたちに届けたいと思っていました。
●退職するにあたって
いつも1年限り、1年勝負というつもりで全力でやり切った29年間だったなと思っています。子どもたちと共に、何事にも全力で取り組んできて、教える立場ではありながら、教師として子どもたちに育ててもらって何とかやってこれたなと思います。
ここ数年は子どもたちのことを本当に愛おしいなと思うようになって、教師としていつ辞めても悔いはないなと感じるようになりました。例えば、子どもたちが休み時間になって「先生遊ぼ、今日は何して遊ぶ?」と声を掛けてくれて、一緒に鬼ごっこや鉄棒などをして「楽しかったね。また明日も遊ぼうね」と言ってくれます。こんな年齢になっても、そんな風に私のことを求めてくれて一緒に遊ぶことを喜んでくれる子どもたちの存在をとても愛おしいと感じました。多忙だと言われているのですが、子どもの遊びの中で生まれるつながりを大事にして、長い休み時間はぜひ子どもたちと本気で遊んでほしいと思います。
●私が思う教師の魅力
何といっても教師の喜びは、子どもたちの成長を一番間近で見たり感じたりできるということだなと思います。もしかしたら、親よりも長い時間を子どもたちと過ごしている教師が、子どもたちが新しくできるようになったことに感動とか共感の思いで立ち会って、その喜びを共有しほめることができたら、子どもたちはどんなに自信をつけて、また次の新しいことに、できないことに挑戦していけるんだろうなという風に思って。だからこそ、「できた」や「わかった」の場面に立ち会えた時には、子どもと同じ熱量で、子どもと一緒に喜び合えるような教師でありたいなという風にずっと思ってきました。そういう場面に立ち会えることっていうのは、教師にとっての最高の喜びで、幸せだと思います。
(2020年10月10日)
泉先生はまさに「子どもに寄り添う」先生だと感じました。「寄り添う」とは、子どもを一番に考え、楽しい時も苦しい時も、その感情を分かち合う存在になること。子どもの一番の理解者であること。ということを学びました。常に子どもたちのために何が出来るのかと考える、泉先生のような教師に改めてなりたいと思いました。
泉先生が今までに書かれたお便り
語り手 樋渡美千代
聞き手 芦野ひより
〇海外の人とつながることが楽しかった!
私は樋渡美千代です。出身地は山形県新庄市です。現在は山形県酒田市立一條小学校で校長をしています。
高校時代は、世界中を旅したいなと思っていました。中学生の時に、アメリカ人の子と手紙のやりとりを始めたんです。それが楽しくて、高校になってからも、オーストラリア、イギリス、フランス、ガーナ、スペイン、エジプト…。色々な国の人と手紙のやりとりをしました。基本的には、人とそうやって関わることが好きだったのかもしれません。英語も大好きでした。授業が楽しかったというよりも、自分で海外の人とつながることが楽しくて、英語の勉強しかしてないくらい好きでした。
〇予想外の採用からの教員生活スタート
教員採用試験は小学校を受けて合格しました。でも、採用が中学校だったんです。1か月間アメリカ旅行に行っている間に教育事務所から連絡があり、なんと父が中学校採用を承諾してしまっていたんです。新採の学校で受け持つように言われた教科は、国語と社会でした。国語はもともと大の苦手で、少しでも勉強しようと思って免許を取っていました。社会は国語の次に苦手な教科。もちろん免許はありません。最悪のスタートでした。しかも、学校も決して落ち着いた状態ではなかったので、毎日辞めたいと思っていました。特に社会の授業は困りました。明日の授業のために、家に帰ってから一日5時間くらい勉強して学習プリントを作り、自分が学んだことを全力で教える自転車操業的な授業でした。それでも、積み上げていったらだんだん社会が面白くなってきました。自分が面白がって授業をしていると、生徒も面白がってくれるんですよ。それまで私は面白さに触れるところまで社会を学んでいなかったんだと思います。自分が面白がって授業をすることがすごく大事だとその時に思いました。
〇頑張りすぎていたことに気付いた3年目
3年目。中学3年生の担任になりました。最初の指導が肝心と思い、気合いを入れて頑張りました。しかし、何をやっても空回り。例えば、合唱コンクールの練習も、生徒たちは全然真面目にやらないんです。プレ大会当日の朝でさえ、全然声が出なくて、朝から怒鳴りました。こんなに頑張っているのに、一体どうすればいいの、何が悪いの…。もう絶望しかありません。そして迎えた、プレ大会本番。女子は蚊の鳴くような声で歌い、男子は歌うどころか、全員口を閉じその場に立っているだけでした。子どもたちに、私の思いは全然届いていないわけですよ。そういう状態で1学期が終わりました。
夏休み、研修でアメリカに1か月間行く機会に恵まれました。現地の教育について学んだり、学校を訪問したり、ホームステイしたり…。最高に楽しかったです。学校のことはほとんど考えず、朝早くから夜中まで全力で楽しみました。研修終盤、ナイアガラの滝を見に行きました。雄大な瀑布をぼーっと眺めているうちに、今までの自分の悩みがとてもちっぽけなものに思えてきました。そして、学校でも今みたいにリラックスして子どもたちと向き合ってみよう、頑張るのをやめてみようと思いました。
日本に帰ってきたら、すごく肩の力が抜けていました。例えば、文化祭でのクラスの出し物で、子どもたちが「サザエさんの家」をつくりたいと言い始めたことがありました。以前の私なら「もっと中3らしいことを」とアドバイスしたと思うのですが、ぐっとこらえて子どもたちに任せました。そうしたら、それがすごく面白かったんです。クラス38人みんなが週末にサザエさんを見てきて、玄関を入るとどの部屋につながっているとか、玄関に何が飾ってあるとか、床の間の違い棚のつくりとか、本当に細かいところまで見てきて、家の設計図を作ったり制作すべき小道具について話し合い始めたりしたんです。最終的には、実にすばらしいサザエさんのミニ模型が完成しました。この出し物は、なんと校長賞までいただいたんです。また、文化祭当日に行われた合唱コンクール本番では、心のこもったハーモニーで見事優勝することもできました。この子たちは任せたらこんなにやれる!と思った瞬間でした。
〇子どもの声を聴くこと
あの3年間がなければ、私は今、違う教師になっていたと思います。最初は本当に苦しかったです。でも、失敗しないとだめなんです。私はたくさん失敗しました。初めは、教師らしくしよう、こうさせなくては、という思いで、子どもたちを縛ろうとしていたんだと思います。しかし、子どもの声を聴くこと、子どもを信じることの大切さを、あの子たちに教えてもらいました。人から言われたのではなく、実体験として自分で気付けたことは大きかったです。あの子たちには本当に感謝しています。
担任をしていると、時として子どもの声を聴く余裕がなくなります。今は校長としてそこをフォローすることが役割だと思っています。子どもの声を聴き、子どもの姿を見て回り、休み時間に先生方と話をします。「こんな面白い場面がありましたよ」って子どもの話をすると、先生方もうれしそうで、そんな先生方の姿を見るのもまたうれしいんです。
(2020年11月13日)
私にとって、子どもについてはもちろん、どんなことにも面白さを見出し、本当に楽しそうに語る樋渡先生は憧れの存在でした。そんな樋渡先生がまさか初任時代にこんなにも大変な経験をされているとは思いませんでした。まず現状から一歩踏み出してみること、失敗するかもしれないけど、そこでとことんもがいてみることが、面白さをつくっていく秘訣だと今回学びました。
4月からは、教師として失敗を恐れずにチャレンジしていきたいです。とはいっても、失敗が怖い自分もいます。まずは、チャレンジしてみて、失敗もそこでの子どもの姿も面白がりながら、人と一緒に語ることも大切にしていきたいです。
語り手 樋渡美千代
聞き手 越後七々美
〇海外の人とつながることが楽しかった!
私は樋渡美千代と言います。出身地は,新庄市です。小学校の教員で,今は酒田市立一條小学校で校長をしています。
教員になろうと思ったのは,小学生の時でしたが,高校生の時は,世界中を旅したいと思っていました。
私は中学生の時に,海外の友達を紹介してくれる機関に申し込み,アメリカ人の女の子と手紙のやりとりを始めました。それがすごく楽しくて,高校生になってからは,色々な国の人と友達になりたくて,アメリカだけではなく,ウルグアイ,オーストラリア,イギリス,フランス,ガーナ,スペイン,マレーシア,エジプト,アルジェリア,本当に色々な国の人と友達になりました。もともと人とコミュニケーションを取るのが好きでした。
〇想定外だらけで始まった教員生活
小学校の採用試験を受けて合格し,中学校国語で採用になったことが,私の教員生活のスタートでした。本当にびっくりです。それに,私が初任で受け持った教科が,二大不得意教科の国語と社会だったんです。もともと高校の英語の教師になりたかったんですが,進路選択時に小学校を選び,大学では心理学を専攻しました。そして卒業時に,小学校と中学国語の免許を取りました。国語の免許をとったのも,小学校の教師なのに国語が苦手とは言っていられないと考え,ちょっと勉強しておこうと思ったからでした。だから,私にとっては本当に想定外のスタートだったんです。
初任の中学校には4年いましたが,当時学校は決して落ち着いた状況にはなく,最初の2年半は何もかもがうまくいかず,早く仕事を辞めて海外に行きたいと考えていました。
〇子どもの話を聴くことに気づかされた
3年目に中学3年生を担任していたのですが,その時,4週間アメリカへ研修に行く機会がありました。研修終盤で,ナイアガラの滝を見に行ったんです。その瀑布に圧倒されているうちに,「私はなんて小さなことで思い悩んでいたんだろう」と思えてきました。そうしたら,今までのもやもやが消えて,「もっとリラックスしたらいいんじゃないかな」と気づきました。帰国後,肩の力を抜き頑張るのをやめた瞬間から,全てが上手くいくようになりました。合唱コンクールも文化祭の出し物もクラスの子どもたちに任せてみたら,私の想定を遥かに超えるすばらしいものを創りあげ,子どもたちの力に本当にはっとさせられました。学級の子どもに任せてみると,こんなにやれるんだ!と私が気づいた瞬間でした。それまで「教師らしくしなければ」とか,「こうさせなきゃ」という思いがあまりにも強すぎて,私が子どもたちの全てをコントロールしようとしていたことに気づかされました。
子どもの話をじっくりと聴くことの大切さは,当時担任した子どもたちに教えてもらいました。彼らにはとても感謝しています。この経験は,今でも私の教師生活の礎になっています。
〇すべてが今につながっている
現在仕事をしてるときも,常に子どもたちの声,先生方や保護者,地域の方々の声を聴こうと心がけています。担任は日々全力で子どもと向き合っているので,時に子どもの声を聴く余裕が無くなってしまうことがあります。だから私は,毎日教室を通覧し,子どもの表情を見,声を聴き,その姿を写真に収めるとともに担任に伝えるようにしています。今,私には担任より時間的な余裕がある分,子どもたちを違う視点から見て,担任をフォローすることが役割だと思っています。担任が見えていない子どもの様子を伝え,一緒に子どもの育ちを語るのが最高に楽しいんです。子どもの話をすると,担任もとても嬉しそうで,そんな担任の姿を見るのもまた嬉しいんです。
〇教員生活を振り返って大切なこと
大切なことは失敗することですかね。失敗しないようにしていると,結局何も学べません。私もこれまでいっぱい失敗してきました。最初から何でも上手く行くわけではありません。自分の信念を持ちつつ,人の話に耳を傾けながら,自分で判断してチャレンジを重ねていけばよいのではないでしょうか。
(2020年11月13日)
樋渡先生は,私が教員以外の進路を考え始めていた学部3年生の時に,卒業後の進路の一つとして教職大学院を勧めてくださった方でした。樋渡先生は,会うたびにいつも子どもの学ぶ姿を楽しそうに語っています。その話を聞いているうちに,「樋渡先生のような先生になりたい」と思うようになり,私は教員志望と教職大学院進学を志すようになりました。
初任当時樋渡先生ご自身は,大変で辞めたいと思うほどだったにもかかわらず,子どもの力をもっと信じること,言葉を聴くことの大切さに気づいて乗り越えてきたことを知りました。樋渡先生が語る言葉の一つひとつから,「いくら今が大変でも,正解は失敗して,もがいてつくり続けたその先にある」そんなことを学びました。来年度4月から教壇に立つ私は,将来に不安だらけでしたが,こうして樋渡先生にじっくりお話をお聞きする機会をいただき,自分なりの覚悟ができた良いきっかけになりました。
語り手 大山由起子
聞き手 井村優美
●「作文指導したいです」から始まった
大山由起子です。出身地は新庄市ですよ。
当時、どんな教師になりたいですかと聞かれたときに、「作文指導したいです」って言った記憶があります。これまでの勤務校は、新採は真室川、その次は日新。5年目には病休を取りました。その次は最上教育センター。当初は指導主事だったんだけど、3年目には管理的な仕事もしました。その後、大蔵中に1年いて、県庁の義務教育課に行きました。大蔵に1年だけいたときに、教務と学年主任と研究主任して、1年の間にいろいろ提案したけど、言うだけで、次の年、言った本人が居ない…これ、誰やんの?って話。県庁で4年間のあとは、肘折中に、教頭として行って、ここからは管理職になりました。そして、肘折中の閉校。モノを片付ける、使わないものはどんどん捨てるっていうのはここからスタートしました。その後は最上教育事務所。その次に中田小に校長として赴任して、また閉校。次は八向中、大蔵中、舟形中です。
●授業を見る目
県庁での4年間の後半に、A先生と一緒に仕事をするようになってから、授業を見て、「あそこはどうだったとか」話すようになりました。彼は授業に対して熱い。「あなたはわかっていない」とも言われました。それが私の土台になっています。教育事務所での3年間でB先生と出会ったのも大きくて、B先生自身が勉強していることを私たちにどんどん教えてくれました。「こういう授業だったらどうすれば面白くなるべね?」とか「いい課題って何だろう」ってほぼ毎日。あと、ここにある本のほとんどはB先生にもらったもの。話をしながら、授業の見え方がちょっと出てくるようになったんだよね。それまでは、「なんとなくこの授業面白いな」って思っても根拠がなかった。センスだけで、そこをなんと説明していいかわからなかった。だから、申し訳ないなって思っているんだよね。だから授業の省察について勉強するようになった。理論と実践のつながり。軸を持ったことばって強いよね。軸を持たないと人は変わらないなって気づきました。
●面白いことしたい
先生になってから2年目のときに俵万智の短歌を使った授業をしたのね。情景を思い浮かべるっていうことをやったときに、同僚のいつもは厳しい先生から「これは大山さんだからできる授業だよね」って言われて、自信を失っている中で、自分のコンセプトが見えた気がする。その当時の校長先生も一緒に教材研究をしてくれて、「この文章はこうだよね」って教材研究を見せてくれたこともありました。今考えると本当にすごい人と出会っていると感じます。それが、私の本当の基礎でしたね。あんまりプライドとかないからいろいろできるって思ってます。面白そうって思ったものは取り入れてきたっていう教員人生だったかもしれません。
校長になっても、授業をしています。授業をすることによって実証したいって思いがあるんですよ。やっていることが先生たちと共感して、聞いて、自分はこうだったよって言えることが自分の強みでもあるかな。いつまでも授業するっていうスタンス。自分でやってわかることもあるから、面白い課題とか、今までしたことがないことをしていきたいなって思います。「大山の国語って面白いよね」って言われたい。
●次世代につなげる
最後まで満喫しまくって…って自分の学校じゃないから、自分の想いだけではだめだって思ってます。次世代につなげるようなことをしなきゃって。先生方が働き甲斐のある学校にしたいですね。今、三年生と面談しています。なかなかしゃべる機会がないから、どういう子だかわからない。15分くらいで「中学校生活があと半年、どうだ、学校生活?」なんて話してね。「俺たち、1年のとき、いろいろあったんすよ。それから見たら穏やかになったかなって思ってます」って自分なりに振り返ったりしてて。未来はあるよって、希望的な話をして終わってます。報われない思いを抱えている子もいるから、高校で頑張れってね。うっすらやる気が出てきたくらいで終わるのがいいんじゃないかって思ってます。
(2020年10月16日)
初任の時に大山先生と出会って、様々な場面でいろいろと教えていただきました。聞き書きプロジェクトと聞いて、すぐに思い浮かんだ人でもあります。
「大山の国語って面白いよね」。このことばがすごく印象に残っています。わからなくて何もできない子どもを何とかしたいという思いもそこにはあったように思います。校長先生として勤務しながら、いつまでも面白さを求める姿が見えてきました。大山先生は、来年度が最後の1年となりますが、一緒に面白さを求めたいという思いを持たせてくれました。
語り手 森谷雅志
聞き手 伊藤真惟
森谷雅志です。昭和40年生まれ、57歳です。出身は山形市で、山形生まれ山形育ちです。先生になりたいなと思ったのは、中学三年生の頃。その時に、今で言う講師の先生を見て、面白そうだなって思った。最初は、中学校の体育の先生になりたかったんです。でも、結局、小学校の先生として採用試験を受けた。今は、結果的に小学校の先生になって良かったなと思っています。
〇「遊び」で学級をつくる
若いときに、どうやって学級づくりしようかなーって考えたかというと、休み時間はとにかく遊ぶ、って考えたかな。子どもが本当の姿を出すのは授業中じゃない、って思ってたので。とにかく遊ぶっていうのを考えた。休み時間に子どもと一緒に遊べなくなったら、担任辞めようなんて若いときに自分の中で決めてたんだけど。今日も昼休みに一緒にバスケットしたし。その気持ちは今も忘れたくないなというのは思い続けている。とにかく遊ぶことが学級づくりの、うーん基本とまでは行かないけど。そんなこと考えたかな。
〇良い意味の「適当」
新採の当時の校長先生から言われたのは、その新採の時って何でも完璧にしなくちゃいけない、一生懸命しなくちゃいけないって考えるあまり、教材研究を一生懸命するわけだ。次の日の 5 時間分の教材研究を全部して、寝るのが午前一時くらいになるっけのね。で当時の校長先生から、「いいか森谷君、どんなに教材研究して、もしいい授業しても、先生が眠たい顔して子どもの前に立っていたら何にもならないんだよ。」極端に言うと、授業なんかどうでもいいから元気な姿で子どもの前に立ったらそれでいいんだっていわれて、やめたの。やめたって全然やめた訳じゃないんだけど、それまで 1 教科 1 時間やっていたのを 30 分に減らすとか、「適当」を覚えたの。適当って二つの意味があるじゃん。適切な方と、ちゃらんぽらんと。「適当」を覚えてから楽になったというか、とにかく元気な姿で子どもの前に立とうっていう、その当時の校長先生の一言は大きかったかな。
〇教師として続けていること
自分は教室で朝子どもを待つ、っていうポリシーだったので。朝一番に教室に来る子って、誰もいない教室に入ってこなきゃいけないってことになるでしょ。そこに先生がいたら、待っててくれる人がいるなんていう思いでずっとやってたんだけど。夏休み明けとか特にね。そういう何気ないこと、なんかすごい花火をボーンって上げるんでなくて、毎日毎日できることをやっていたかな。
あと学級経営に何を使ったかっていうので、学級便りもその一つだったかもしれない。親が読むお便りじゃなくって、子どもが読むお便りをつくるの。子どもが読むものって親も読むでしょ。でも、親が読むものって、子どもは読まない、っていう発想からかな。
〇“理想の教師”とは?と聞かれたら
今浮かんできたのは、自分がどうじゃなくて、子ども目線で考えた時に、明日も学校に行きたいなって思ってもらえる先生かな。繰り返しになるけど、子どもが、今日、先生とバスケット楽しんできたんだ、って言ったのが最近 一番嬉しかったことなの。前の日から楽しみにしったんだっけもん。嫌なことなんて吹っ飛ぶもん。自分がどうじゃなくてね、子どもがどうか、かな。 今は昔と違って、あまりにも学校に求めすぎ。もうお客様扱いにしなきゃいけないの。サービス業になっちゃっている。もっと先生を信頼してくれ、かな。これからの人って楽しい思いするのかなっていう心配、こう老婆心みたいなのがある。でも、いくらきついことがあっても、一個嬉しいこととか楽しいことがあったら忘れられるんだよね。
(2022年11月18日)
今回、自分が教職を目指すきっかけとなった先生とお話しすることで、それまで抱いていた不安や、教職に対して曖昧だった自分の考えが変化していった。今と昔では大きく異なる社会の中でも、教師として核となる考え方は変えたくない、と思った。自分にとって大変有意義なプロジェクトだった。
語り手 早川正道
聞き手 門脇彩花
〇子どもを絶対に見捨てない
早川正道と言います。これまで山形県内の小学校に務め、今は教育コンサルタントとして活動しています。
おれね、中学では勉強に帰ったらまず一日の復習を完璧にして、剣道の素振りとか打突の研究をずっと家でやって、勉強と部活だけで友達と遊ばなかった。 でもだんだんそれが苦しくなってきて、高校ではいわゆる不良ということをやってみたの。毎日遅刻して、職員室に行って。それで、その時の先生の反応とか関わり方を見てて、どうすると人は反発するのか、どうすると人は優しさとか思いやりが出るのか、救われるのかっていうのを高校時代につかんで。 だからおれは先生っていう仕事を意識し始めた時に、子どもに対して、見捨てない、あたたかく包むような先生、そういう先生なりたいと思うようになったの。
〇経験全部が無駄じゃない
教師ってね、学校の中で生活してると周りの雰囲気に流されてつい真面目になっから。こうあるべきですとか、今日はこっからここまで進む予定だから進まなきゃとか。でも、予定通りいったらだめだっていう風に思うくらいが丁度良くって、自分の成長も予定通りにいったらだめで。すこし振れながら行くのが良いの。そうすると経験が増えるから。まっすぐ行くと経験が少ないのね。 でも振れて少しゆっくり行くことでいろんな経験をする。それがすべて全部無駄じゃないの。友達たちと遊んだ、キャンプに行った。どれだけの経験値を積むかっていう中からいろんな人間として幅が出て、深みが出てきて、高さも出てくる。だんだん年を重ねるごとに、ただ真面目になっていく先生と、まあいい先生だねっていうのと、ちょっと抜けてた先生っていうかね。おれが目指してるのはちょっと抜けてた先生かな。
〇マインドは子どもの味方
どんな先生になりたいのかっていうのがあると、そこからいろんなアイディアとかエネルギーが湧いてきて、仕事がうまくいかなくても失敗しても立ち直る早さが違うの。
一つは、子どもに良い影響を与えたいってのがあった。先生って影響力があるから、「良い影響力を与えたい」って思っていないと、つい影響を与えてしまっていることを忘れちゃう。もう一つは、おれが太陽のようになって、おれの存在で子どもたちが癒されたり元気が出たりっていう、そんな風な先生になりたいって思ったの。先生に会いたいから学校に行きたいと言われたいとかね。
だからね、先生だから子どもに教えらんなね、こういうことできるようにさんなね、じゃなくて、もうマインドは子どもの味方。
〇一番挨拶が心地良い先生
子どもたちには、挨拶・返事・言葉遣いと反応っていうことを意識して伝えてきてたよね。それで子どもたちに言っている以上、この学校で誰よりも挨拶も返事も言葉遣いも反応も良い先生でありたくって。だから、成生小にいる時は成生小で一番挨拶が心地いい先生って目指したのね。 元気がいいだけじゃだめで。ただ大きい声で「おはようございまーす」っていうのはびっくりするじゃん。にこやかに「あっ、おはようございます!」。誰よりも心地良いの。
返事も、単に「わかりました」じゃなくて、「あー、はい。良いっすよ!」って。言葉遣いなんていうのも、何だろうな。ぞんざいにならないっていうか。おれにとっての言葉遣いには“真心こめて丁寧に”っていうのかな。“声の響き”も入ってんの。
〇うまくいかない時こそが教育のチャンス
うまくいかない時こそが大事なのよ。失敗するということは教育にとってとても大事なことになる。失敗した時こそ、その時こそ自己肯定感を高めてあげられるチャンスなのよ。「失敗したって大丈夫なんだ」って最高の自己肯定感をあげることになる。失敗したとき「残念だったね」とか「次、頑張ればいいよ」っていう慰めの言葉とかじゃくて。ハグしてあげて一緒に泣いて上げることかもしれないし、泣いていたとしても、その子の「今悔しいって気持ちは素晴らしいな」とか。「それがあるからあなたは成長してくるんだね」とかね。
その場に応じた適切な言葉は、固定的にこういう言葉をかけてあげるといいよと覚えちゃうとだめで。その前の教師としての在り方をどう設定しているかで、その子どもとかそれまでの状況とか、応じた言葉が無意識にできるようになるの。絶えず後悔したり振り返ったりしながら俺たちは人間の魅力を磨き、教師としての実力を磨きっていう風にしてるの。
(2022年11月20日)
私にとって、早川先生は今の自分の力を見つけ、伸ばしてくださった憧れの存在でした。今回の聞き書きを通して、先生の教職に対する姿勢や考え方をお聞きし、自分自身の目指す教師像を改めて確認することが出来ました。先生がおっしゃった「経験は全部無駄じゃない」という言葉にもっといろいろ経験してみようと思えたり、「教師としての在り方と設定から自然と言葉が生まれる」というお話から目指す教師像を持つことの大切さに気付いたりすることが出来ました。私も早川先生のような、子どもたちを一番に考えて接することができる教師になりたいです。
語り手 保科清子
聞き手 阿部咲来
〇小学校のときの先生が大好きだった
保科清子です。これまで山形県内の小学校で勤め、現在は退職して孫のお世話をしています。
教員を目指したきっかけは小学校の低学年のときの担任の先生です。音楽の先生だったんですけど、私がとてもお転婆な子だったので、同級生と二人で学芸会でダンスさせられたりしました。とても優しくって、話をよく聞いてくれた先生でした。その人が教員を目指したきっかけかもしれません。
大学は、大妻女子大っていう東京の大学に行っていました。平井信義さんっていって、『心の基地はお母さん』っていう本などを書かれた方なんですけど、その先生がそこにいらしたんですよ。その平井先生に会いたいというか、その先生に学びたくて行きましたね。臨床関係が得意な先生で、多動児とか、今で言う高機能自閉症とかそういうお子さんをいっぱい扱っているところだったので、とても勉強になりました。
〇授業で鍛え、授業で育てる
目指していた教師像は、勤めていたある学校の校長先生からお聞きしたんですけど、「授業で鍛え、授業で育てる」っていう言葉が今でも頭に残っています。担任の先生としては、他にもいろんな行事があるけど、日々の授業で子供たちを育てていかなきゃいけないんだよって。だから、授業1時間1時間の授業を大事にしましょうっていうのがその校長先生の考え方だったんですよ。教材研究をとにかく大事にするっていうのが基本だったかな。だから私もその先生のようにはなりたいなとは思っていましたね。
〇どんなお子さんでも必ずいいところがある
手がかかるお子さんってすごい印象に残りますね。例えば35人クラスにいたら、それぞれがいいところを持っているし、みんなを好きになっていました。
Dくんってお子さんがいたんですけど。聞かないお子さんだったんですよ。校内に教室から繋がってる中庭があったんだけど、その出入口のガラスなんか割るっけの。ぶうんって開いてないのにぶつかって。開いてると思って突っ込んだんだろうね。
そういうお子さんだったんだけど、私にすごく懐いてくれて。私が、大事MANブラザーズバンドの『それが大事』っていう曲が好きだから、お昼の放送でリクエストしたら、「これは保科先生が好きな曲だから俺もこの曲大好きだ。」って言ったんです。
あと、授業中に寝ているお子さんもいました。家庭的に恵まれていなかったりして。もう手のかかる困った子だって言われているお子さんだったんですけど。でも、その子にもやっぱりいいところがある。その子は、今でもやっぱり連絡がきたりしますね。
〇一番のやりがいは子どもたちとの生活そのもの
小学校の教師としての魅力は、何の色にも染まってない、いろんなところから集まってきた子たちを自分が教えていくっていうのはすごく楽しいものがあったかなと思います。
やっぱり子供たちと毎日勉強したり遊んだりできることが一番楽しいし、その子たちがいろんなことを覚えて変わっていく姿を肌で感じることができるっていうのは先生として一番のやりがいかなと思いますね。
(2023年11月21日)
保科先生は私が教師を目指すきっかけになった大好きな先生で、教師としての私のロールモデルでもあります。私が教師になりたいと思えた理由は、毎日の学校生活に充実感や満足感があったからだと考えています。保科先生への聞き書きを通して、子どもたちが学校生活に充実感や満足感を得られるポイントを2つ見つけることができた気がしています。一つは、日々の授業が子どもたちの生活そのものであり、その授業を充実させることの大切さ。もう一つは、子どもたち一人一人に愛情を持って接し、その子の良いところを認めるということです。簡単なことではありませんが、私も教材研究にこだわりを持ち、子どもたちとの関係を大切にしていきたいと思います。
語り手 髙梨由紀子
聞き手 遠藤耀
髙梨由紀子です。出身地は山形です。これまでの勤務校は、寒河江中部小学校のあと、天童北部小、今は白岩小学校に勤めています。
私が教師をやってみようと思ったのは、大学が終わって2 年ぐらいしてからですね。講師をしてみないかという話があって、引き受けてやってみたら楽しかったというか、教員採用試験を受けて先生になりたいな、というふうに思うようになりました。
〇自分では気づかない、自分のいいところに気づいてもらえるように
私、学校がすごく嫌だったんです。小学校も中学校も。自分の考えたことが正解かどうかとか、点数だけで自分自身が定義づけられているような気がして。自分に自信がなかった。じゃあ点数じゃなかったら、何をもとに自分を定義していくのかって思ったときに、自分が何かしたいことがあるわけでもないし、特にスポーツとか勉強とかすごくできるとか、何もないじゃんって。
アンケートを見ると、自分には何もないと思っている子が、今もすごく多くいて。いいところだと本人は思っていなくても、周りの人から見たらすごい、いいところっていっぱいあるじゃないですか。それで、私が見つけたものを伝えるだけでも、いいところって気づいてもらえるのかなって。人生の中の1 年や2 年の中で、記憶には別に残らなくてもいいんですけど、関わった子ども達、ちょっとでも縁があった子ども達が、一つでも自分のいいところを見つけられたらいいなと思っています。自分でいいんだ。あの人と比べなくても、自分は自分でいいなって。嫌な思い出がいろいろあるけど、誰も自分みたいな気持ちにはなってほしくないなっていうのはあるかもしれない。
〇教師も子ども達もワクワクできる学校生活を
なんのために勉強するのってずっと思っていて。学生のときも勉強は無駄じゃないかって、すごく思っていた。公式とかさ。子どもたちもよくそう思っているだろうし、自分でもすごいモヤモヤしていたんです。こんなの教えて何になるのって。教えながら自問自答するというか。
でも幸せっていうとあれなんですけど、幸せになるのが一番だなって思うようになって。お互いを尊重し合って、自分のしたいことのためにやっぱり勉強があるんだなって。言葉の勉強だったり、算数の考え方の勉強だったり。
つまんないんじゃないんだよって。自分自身も納得したかった。国語の時間に、みんなで鰹節けずったりしたけど。自分が楽しくないと、私は嫌で。なんかワクワクした方がいいじゃないですか。教える方も楽しくないと。「どう?こういうの。」って子どもに聞いてみて、子どもが楽しいなとか知りたいなって思えるような授業をしたいと思っています。そんなふうにならないときの方が山ほどあるんですけど。学級通信も自分がすごく好きで作っていて。自分が好きなことをするのも大切で。頑張らないで頑張ってください。
〇意思がある学習に
今は、将来、自分で全部選んでいかないといけないじゃないですか。だから自分で決めること。これを頑張るんだとか、これをやりたいとか、自分の意思を持ってやってほしいなと思っています。だからこそ「意思がある自学」を大切にしていますね。
「自分にはこれが足りないから、今、この学習をするんだ」みたいなものを持ってもらいたいなと思ってやっています。やらなきゃいけないからっていう勉強が一番苦痛だと思うので、自分で学習できるようになればいいなと思って。勉強するって結構楽しいじゃないですか。100 点取ったから偉いとか点数あがっていうのはないから。自分が広がる、そんな勉強をしてほしいなと思っています。
(2023年11月27日)
髙梨先生は私が教師になるきっかけになった先生であり、小学生だった頃の私に「自分に自信をもっていい」ことを気づかせてくださった存在でもあります。今回の聞き書きを通し、当時の出来事について先生は、「私の言葉を耀さん自身が掴んだというか、ちゃんと受け取ってくれたから。」だと話してくださいましたが、きっと先生のあふれる想いがそこにはあったのだろうと感じました。教師という仕事をしながらも様々な葛藤があり、「自分は子ども達に何ができるのか」を常に考え試行錯誤している先生の姿を見て、私自身も「一人の人間」として子どもに向き合い、共に悩み、楽しみながら、これから出会うご縁を大切にしていきたいと思いました。
語り手 大沼康平
聞き手 佐々木千晶
大沼康平です。山形市出身です。これまでは山形市立第五中学校に5年、山形大学附属中学校に9年勤め、現在は山形県教育センターで指導主事をしています。
先生になりたいと思ったのは中学2年の頃。授業で行った職業適性で「人と関わる仕事 例:教師…」の項目が他より少し高かったことがきっかけです。それから、部活動とかもすごく好きで、中学校で部活動教えたいなって思うようになって。その時は数学の先生になりたかったんだけど、浪人しているときに理科好きだなあ、実験したり体験したりするの好きだなあと思って理科の先生になることを決めました。
〇思いの大切さを伝えたい
私自身一番大事にしているのが「思い出は心の豊かさ」。思いを傾けないと思い出にならないし、思い出があるとあの時に頑張れた自分がいたなっていう自信になるかもしれない。上手くいかなくて不安な思い出もあるかもしれないけど、やっぱり昔の自分を土台にしているなって思うので、思い出は大事にしてほしいかな。
行事とかは何気なくやっても、ねっづぐやってもその日が来たら終わるよね。けど、頑張ったら頑張った分の見える景色があるだろうし、やっぱいい景色をみんなに見てもらいたいなと思っていました。だから、学級通信を活用して、結果じゃなくて、気持ちの面での話を書いて伝えていました。こう頑張ってほしいっていうのをいろいろな方向から伝えたりとか、できなくてもあなたがダメなわけじゃないし、あなたのことをわかってるよとか。あなたらしくていいんだけど皆が頑張っているからもうちょっと頑張ってみよう、っていうのをいろんな形で伝えたいと思ってたかな。話した言葉って結構消えていくよね。本当に伝えたいからあえて文字にした言葉もあったから、画像とかも色々加えながら学級通信はたくさん出しました。
〇自分が笑顔でいるとみんなが笑顔で集まってくる
教員になってから大事にしているのは、笑顔は最大の教育力。先生はやっぱり疲れる時もあるし、イライラするときもある。先生になってから本当に上手くいかなかった時もあったんだけど、その時の自分は笑ってもいないし、怒ってばっかりだった。多分クラスの子たちも面白くなかったよな、っていうところがあって。そういう“思い出”があるから、教室の教卓のところでのんびりしていて、いつでもおいでよって雰囲気で、昼休みに雑談していたりとか、話しやすいところがあったりしたらいいなあと思うようになった。やっぱり笑顔でいる人たちのところに人って笑顔で集まってくるんだよね。だから、イベントとかあったら一緒に喜ぶことも大事だなあと思ってる。みんなで頑張ってるのってやっぱり格別なのよ。
〇後ろから頑張っていこうと言える教師
中学校3年間でその人の人格を変えようとか、この人をこういう風にしていこうとかって思ったとしても、やっぱりその裏にその人が12年間積み重ねてきたものがあるんだよね。だから、その人を全て変えようってのはおこがましいんじゃないかなって私は思う。わかってあげて、こうした方が良いんじゃないっていう風に、道を示してあげられればいいかな、という気持ちでいたかな。理解するためには話したり、近くにいたり、時にはその場にいたりするだけで良いかもしれないけれど、わかろうって心がけていくことが大事だと思う。
私はいろいろいって「圧」をかける人間じゃないし。なるべく人と寄り添って一緒に楽しんでいったりとか、後ろから頑張っていこうといったりできるような教師でありたいな。
(2023年11月16日)
今回のプロジェクトを行うにあたり、恩師と聞いて私が最初に思い浮かんだのが大沼先生でした。常に親身になって相談に乗ってくださったり、昼休みはずっと教室にいて生徒と関わったりしているような先生で、そのような先生の姿を見て自分自身も自然と教員を志すようになりました。
先生との話を通じて、教員にとっては担任をするたった数年間の付き合いであったとしても、その子どもには昔から積み重ねてきた経験や、卒業した後の人生があるということを改めて実感しました。そのため、一人で子どもを見ようとするのではなく、将来を見据えて、じっくりと成長を見届けられる教員になりたいです。また、私自身も教壇に立つときには、教卓のところでのんびりしていて、いつでもおいでよという雰囲気で、昼休みに雑談できるような、話しやすいところを作りたいと思います。
語り手 秦美奈
聞き手 山岸和
秦美奈です。出身地は山形市で、現在は山形大学附属中学校に勤務しています。
私は人文学部でしたので、教育実習は4年生の秋がはじめてでした。正直なことを言うと、春夏くらいまで就活をしていて、本当に一般企業に勤めることになっていて。それが、秋に自分の母校に教育実習に行って、「あ、やっぱり教員になりたい」っていう気持ちが膨らんで、現在に至ります。
〇今でも考える、教師を目指した理由
自分でも今更考えるときがあるんだけど、教師を目指した理由は大きく2つ。
1つ目は、やっぱり英語がとっても好きだったから。当時は主に中学校から英語を習うという感じだったから、1番初めの指導期に関わりたいなっていうのがあったかな。
2つ目は、人と関わる仕事がいいなと思って。他にも人と関わっていく仕事はあるんだけれど、誰かが困っていたり悩みがあったりしたら、一緒に考えて助けていければいいなと思って。大きな舞台で考えると、世界に飛び出て支援することが平和への道という視点ももちろんあると思うけれど、自分の身近なところから関わっていくことも平和への道。子どもたちは未来そのもの。将来を担っていくし、その子どもたちを育んでいくことが、自分にとってもいい世界をつくることになるかなって。
でも、教員採用試験を受けたときに「なぜ教師になりたいのか」と聞かれてどんな風に答えたかも覚えているけれど、教師を目指す理由が、だんだん変わっているような気がするんだよね。
〇英語はすごく前向きになれる言葉
私の中学校3年生の時の担任の先生が、英語の先生ではなかったんだけど、海外では、障害のある方をchallenged personって言うんだよねって言っていてね。それを聞いた時に、「えっ!」って衝撃が走って。
日本と物事の捉えが全然違うじゃんって思ったんだよね。すごく前向きになれるというか、元気が出る言葉が英語って多いのかなって。
例えば、カップルがいたとして、パートナーを紹介するときに日本だと割とへりくだって紹介すると思うんだけど、通常、海外の人はそれがあり得ない。「うちの妻は料理が上手で」とか「夫はとても素晴らしい男性で」って、そんな風に言うじゃない?そこが、自分に合っていたというか、前向きな英語の表現をどんどん好きになったという感じかな。
以前、オーストラリアの小・中学校で日本語を教えるボランティアをしたんだけど、ある時、メインティーチャーが「何か特技ある人いる?」って言ったのね。そうしたらほとんどの生徒が「I can !」って言いながら挙手をして、ある一人の子が「I can play the drums !」って言ったの。皆で演奏を聞くことになって「どんな演奏なのかな?」と思っていたら、「トン、トン」と太鼓を1、2打叩いて終わり。他の皆はどんな反応をするのかなと思ったら、「すごいね!私も特技あるよ!」ってその場はさらに大盛り上がり。
こんな経験がポジティブシンキングを培っていくのかなと思ったな。
〇大事なことは生徒のそばにいること
やんちゃで目立つ子、ある技能が優れている子、よく発言する子…そういう子たちに目線がいきがち。でも前に出てこない子も沢山いる。その子たちもいろんなことを考えていて、良いところが沢山あるから、私は声がけはそんなに上手くないけれど、じーっと見ていようと思って。毎日掃除頑張ってるなとか、話してるときいつもこちらをよく見てるなとか。退職された校長先生に、「生徒達のそばにずっといるって大事なことなんだよ」って言っていただいたことがあって。教師が何も言葉を発しなくても、その空間にいて、生徒の様子を見るということは大事だなと思っています。まだまだ修行が足らんなっていう感じなんだけどね。
(2023年11月27日)
中学校3年の春、「こんなに英語をペラペラ話す英語の先生がいるのか!」と衝撃を受けた美奈先生の英語自己紹介。なんだか色々言っていることだけはわかったけれど、当時の私が聞き取れたのは“I like pudding.”のみ。今なら、“Which do you prefer, custard pudding or pumpkin pudding?”と、尋ねることでしょう。
今回の聞き書きの中でも、数年前に英語による自己紹介をされたときのように、英語の話題になると、たくさんエピソードが溢れてくる美奈先生の姿が印象的でした。「前向きな英語の表現」という美奈先生の言葉の通り、英語には人を底ぬけに明るくしてしまう、そんな力がある気がします。英語を話している私は、母語である日本語を話している私とは何かが違う。それは、私も前向きな英語の表現に魅せられているうちのひとりだからかもしれません。目先のことだけではなく、「ことば」を学ぶことはどういうことなのかを考え、学びの中で英語は前向きな言葉だと生徒にも、そして自分自身にも実感させ続けることのできる、英語教師になりたいなと感じました。
語り手 工藤美紀
聞き手 庄司杏菜
〇一人一人の良いところを出してあげたい
工藤美紀です。出身は村山市です。今は村山市立冨並小学校の校長をしています。
小学校3,4年生くらいだったかな。図画工作が苦手だったんだけど、担任の先生が一生懸命指導してくださったおかげで、描いたポスターが入賞して自分でもできるんだと自信がついた。それで学校の先生ってなんかいいなあって思った。できなかったことに自信をもたせてくれた、それが大きかったかもしれない。
自分が小、中学校の頃はすごく大人数の学校で、成績のいい人たちが目立ってた。「一人一人」って考えた時にやっぱり誰だっていいところがあるし、特性もあるから、そういうところを出してあげたいなあっていうところがずっと大事にしてきたところ。
〇日記から見えてくるもの
一人一人のいいところを伸ばしてあげたいなあと思った時に大事なのは、一人一人のことを理解しているか、あと信頼関係があるか。だから自主学習と一緒に日記を書くっていうことをずっとやってきました。日記を書くと、何々をしたっていう簡単な内容もあるけど、その人が家でどんなことをして過ごしているのかなあってことが分かるし、好きなことも苦手なことも分かるし、ずっと続けているとこういうこと困ってるよって教えてくれたりとか。あと頑張ったときには授業とか学校で褒めてあげられない、声をかけてあげられないけど日記だったら頑張ったねとか、こういうところよかったよって伝えられるから人数が多い学校でもやっぱり日記は取り組んでました。学級通信に一年間で全員の日記が載るようにしたことや学級通信のタイトルを順番に書いてもらったこともありました。子どもたちの楽しみも増えるしね。親御さんもきっと見てて楽しいでしょ。
〇なりたい自分になれるように
「さんなねことはさんなねんだ」ってよく言ってたよね。いっぱい自由にいろんなことをしてほしいと思うけど、小学生であっても、守らなきゃいけないルールとか、義務があるよね。なんでも好きなようにやっていいってもんじゃないよね。だからその時に自分でこれはきちんとやらなきゃいけないとか、これは道徳的に守らなきゃいけないとか、いろんなやんなきゃいけないこともあるんだよっていうことを「さんなねことはさんなねんだ」っていうふうに言ったのかな。大人になって挫折しないように、ちょっと小学校のうちに厳しいかもしれないけど、そういうところも教えてあげてた方が、知ってた方が、大人になったときにね、自分がなりたい自分になれるかなって思って言ってた。今も言ってます。で、自分自身にも「凡事徹底(さんなねことはさんなね)」と言ってます。
〇いっぱい聞けばいい
私がすごくよかったなって思うのは、同僚に恵まれてたこと。学年や学校でチームになってできるから。そうやって仲間に恵まれて教員生活を送れているなって。他の人にどんどん頼っていいんだよ。だから学校には同僚っていっぱいいるんだから。いろんな先生たちのいいところを吸収しようという気持ちがあるとか、困ったときに困ったよって、こんなことが大変でっていうことが言える雰囲気が大事かな。他の先生と授業を見せ合ったり、自分がやってうまくいったから他の先生にも教えてあげたりとか、そうやってお互いに勉強し合ってた。
もちろん先生になったから頑張んなきゃっていう責任感はあるんだけど、自分も人だから。いろんな学校に行けば私もゼロからのスタートだし。だからいっぱい聞けばいい、わかんないところは。そうすると安心でしょ?
〇まず自分が楽しむ
教師ってどんな仕事か?なんかね、教師の仕事、自分が好きなんだな。自分のやりたいことをやってお給料もらってる感じがする。何ていえばいいのかな、普通の生活の一部かな。楽しいなあ。だから教頭とか校長なんかやってるとね、教室を回って授業を見ているとうずうずして、自分も授業がやりたいって思って。
やっぱり、勉強が楽しいって思ってほしいなあって。考えることって楽しいなあとか、あと、友達っていいところがあるんだなあとか、みんなで話し合うと自分がもっているものよりいいものができるなあとか。あと、ああ分かんないって素直に言ってもらえるのがうれしいな。「授業は先生がつくるんじゃなくって、子どもがつくっていくものだ」と思っているから、なるべく子どもたちの中から課題を出して、いろんな解き方で解かせてああだこうだ言って、「この考えいい。」とか、「あの考えがいい。」とか、「ええこれどうなの」って、みんなが参加できる授業にしたいなって思ってました。
教師の仕事は大変だけど、楽しいよ。ただ、自分が楽しくないと子どもたちが楽しくないから、大変な時は休むことも大事。それが子どもたちのためでもあるし、自分が楽しいことが一番。
(2023年11月20日)
工藤先生は、小学校時代にたくさん褒めてくださり、時には厳しく指導もしてくださいました。工藤先生のおかげで今の自分が出来ている部分も多くあり、教師を目指すきっかっけとなった憧れの存在です。今回の聞き書きを通して、先生の子どもたちへ向けた願いや教師という仕事に対する考え方をお聞きして、自分自身の目指す教師像を改めて確認することができました。なりたい自分になるために、自分自身も、子どもにも、「さんなねことはさんなね(凡事徹底)」という言葉を今もかけ続けているというお話から、子どもに対して「なりたい自分になってほしい」という願いをもつということはもちろん、教師である自分自身にも「なりたい自分になる」という願いをもつことが大切なのだと思いました。私も「なりたい自分になる」ことを目指し、教師として成長し続ける存在でありたいです。
語り手 戸田昌幸
聞き手 大滝奏汰
〇数学の面白さを伝えるために
戸田昌幸です。出身は米沢です。今まで務めた学校は赤湯中学校、米沢五中、米沢三中、米沢一中、米沢五中、米沢六中、米沢七中です。教員免許は宮城教育大学の当時は中学校教員養成課程数学専攻で取りました。数学は、分かったとか解けたときに喜びが非常に大きく、答えが出たときの気持ちよさがあります。そういったものを子どもたちに伝えることができたら面白いのかなと思い、数学を専攻しました。大学3年生のときに、付属中の3年生に授業したときに、「面白かった」「分かりやすかった」などと言ってもらえたことで、最終的に教員をやろうかなと思いました。
〇こだわり続けたノート指導
続けていることはノート指導ですね。授業で何にこだわっているかというと、まず、“説明をわかりやすくする”ということですね。次に、その説明を聞いて問題が解ける「できたやったー」と“解けた、嬉しいって感じさせる”というのと、“振り返りに役に立つノートにする”、この3つですね。「わからない、わからない」という子どもがすごく多かったから、何とかしよう何とかしようと思って、いろいろ本を読み漁って自分なりにまとめてみました。細かいところはリニューアルしながらやっていますが、原則の型みたいなところは変わっていません。教科書を使ってノートに書かせるというタイプの授業が王道だと思います。タブレットが1人1台与えられている時代ですが、やはり書かないと覚えられないと思うんです。声に出しながら書くというのが一番覚えられるので、そこはノートがいいと思います。ノートの方がクリエイティブな感じがするんです。余っているところもあるから、思ったことを書き込むことも可能ですしね。授業用ノートを準備しておくことで、自分でもすごく落ち着いてできるので、未だに続けています。
〇生徒にとっていい授業へ
結局授業って生徒が判断をするものだと思っているんです。いい授業か悪い授業かは生徒が決めるんです。いくら私が一生懸命授業しようと、いい授業でしょうと言っても「分かんないもん」とか「全然解けないんだけど」となったら駄目だと思うんですね。私が一生懸命やっているとか考えているなんてことは、ある意味どうでもいいことで、生徒が分かること、それで一番なわけです。なるべくかみ砕いて発問しているつもりですし、たくさん指名していたのも、自分なりにこだわってやっていました。得意な子が良かったと言ってくれる授業でありつつ、苦手な子も満足する、やりがいを感じるという授業にしたいと考えています。すごく難しいところですが、そういうところができるといいのかなと思っています。
〇みんなの居場所づくり
生徒と関わることで大事にしていることは、やはり誰も取りこぼさないことですね。勉強が得意な子、苦手な子、活発な子、明るい子、あるいは、おとなしい子などいますが、そのすべての子たちにとって居心地のいいクラスであることが大事だと思います。居場所があることと出番があることが大切です。普段はおとなしいけど、この子にはこれが優れているよね、というところを見つけてあげられるようにしたいな、と思っています。いろいろ抱えている子もいました。学校に中々来られないという子も担任したことがあります。そういう子も含めて自分のクラス誰も取りこぼさない、誰にとっても居心地がいい状態を作るということを考えています。
〇学び続ける教師として
もっと授業上手になりたいです。もっと分からせる方法があるんじゃないかなと考えています。今年度最初の5分間にプリント学習をやり始めました。宿題でやってきてそれと同じ内容を次の時間の最初の5分で確認するというのを毎時間行っています。数回たまったらもう一回練習させて小テストをする形で持ってくと定着するのではないかと仮説を立てて取り組んでいます。せっかく思いついたらやってみるようにしています。毎時間プリントを作るようになったことは、1歩また進歩できたのかなと思っています。だからこれからはね、もっと授業上手くなりたいですね。もっともっと授業上手にしたいです。
恩師の先生から直接先生の思いや工夫を聴くことができ大変良い経験になりました。当時受けていた分かりやすかった授業が、戸田先生が試行錯誤してこだわっていたものであったことやこれからもよりよい授業を作ろうという姿が私のあこがれでもあり、私も教師として頑張るエネルギーとなると感じました。
語り手 鑓水浩二
聞き手 矢作美結
〇得意よりも好きを大事に。
鑓水浩二と申します。出身は米沢市です。高校で国語を担当して27年になります。これまで7回、担任として卒業生を出しました。
私は数学が得意で、高校も理数科を選びました。高校時代は弓道部に入っていたのですが、当時の顧問の先生があまり部活動に協力的ではなくて。それで、自分が顧問になって生徒のために頑張ろうというのが教員になりたいと思ったスタートでした。教科というよりは、弓道部の顧問になりたくて、弓道部ということは高校の教員だなという発想でした。教科で一番得意なのは数学だけれど、それはうまく処理できるというだけで、好きな科目は国語でした。得意だけれど本質的なところでの関心があるかわからない数学よりは、そんなに得意じゃなくても好きな教科がいいなと思いました。国語だったら、現代文の授業が終わってから先生に自分の解釈を伝えに行って、完全に論破されてもまた次の時間は聞きに行くというくらい興味関心があった。出来なかったけど好きだったから、そういう学問の方が教師として一生やるには面白いだろうなって思ったので国語を選びました。今、高校時代のその選択は全く間違ってなかった、正解だったと改めて思います。
〇自分に向いたものを見つけるきっかけに
生徒の進路を考えるときには、その人の性格とか特徴、得意不得意とか人間性を含めて考えて、とにかくたくさん観察しているつもりです。興味を持って、自分が担任している生徒だっていう自覚を持って見ています。人によってはう~んと悩んでしまうこともあるけれど、そこも含めて長所を見つけて、こういうところがあるよなとか。そこを活かすならこんな道があるよなと思いながら、自分の持っている知識の中で、主観的な意見だけれど、こういうの向いていると思うんだけどって伝えたりします。具体的な職業だけじゃなく、こういう働き方やこういうアプローチが合いそうだけどね、なんて個人的な感想を伝えるようにしています。だから、それを取捨選択してきっかけにして、自分の中で掘り下げていって、結論や方向性が見れればそれでいいですし。自分に向いたものを見つけるきっかけになればいいなと思って、意見は伝えています。
〇駄目なものは駄目だと言う大切さ
やっぱり今の世の中は、なるべく褒めるとか肯定するというのがあると思います。もちろん肯定することは大切なんだけれど、私は駄目なものは駄目、違うことは違うって言うことも大事にしたいと思っていますね。そのことで断罪するわけではなくて、私はそれは違うんじゃないかなって思うよって、一人称を自分にして言いたいなと思います。もちろんそれは信頼関係があることが前提ですが。
面倒くさいと思われたり、嫌われたりするかもしれないけれど、大人として、周りにいる人間として言うべきなんじゃないかな。教員としてというつもりはあまりありません。教員というより、ある程度長く生きている人間として私はそう思うよ、もちろんそう思わない人もいるだろうけれど、という前提です。
それが独り善がりと言われたらそうかもしれないし、難しいなって常に悩んでいます。
〇良かったかは何年も経たないと分からない。
27年間教員としてやってきて、後悔はありすぎるくらいあります。私は本音を伝えるからこそ、そのことで私を敬遠する人も出てくるだろうし、嫌な思いをしたと感じる人も当然いると思います。
家族もそうですが、親身になって本気で言うからこそ鬱陶しいというところもあると思います。その答え合わせというかそれが良かったかどうかなんて、卒業して何年も経たないと分からないことかもしれません。あの時言われたことが……とか、あの時は腹が立ったけどとか……そういう言葉を、卒業生たちが大人になって一緒に飲んだりしたときに聞くことがあります。もちろん社交辞令かもしれないけれど、そういう風に言われた時は本当うれしいですね。口うるさく言って煙たがられていたかもしれないけれど、それが役立っているとか良かったとか言ってもらえると、間違ってなかったのかな、少しは役に立ってたのかなと思えて、ホッとします。
(2023年11月28日)
当時の先生の思いや大事にしていたことを知れる良い経験になりました。私自身も、良いことと駄目なことの区別はしっかり付けたいと思っていたので、先生とのやり取りや作品づくりを通して、改めて自分の教師としての軸を定めることができたと思います。
聞き書きプロジェクトって何ですか?
このプロジェクトは、教職を目指す大学生が、恩師を訪問して「聞き書き」をした内容を作品として書き上げる取り組みです。恩師とは、学生がその先生との出会いがなければ、今のような教職への思いを持たなかっただろうという人です。たとえば、母校の先生や教育実習の時の指導教員、家族や親戚で教師をしている人が恩師になります。
「聞き書き」(Kikigaki)とはどういうものですか?
「聞き書き」の手法は、2002年から始まった「聞き書き甲子園」で高校生が取り組んできたものです。NPO法人共存の森ネットワークが運営の主体となり、農林水産省や文部科学省が加わって実行委員会をつくり実施しています。 この活動は、自然に関わる生業を営む全国の名人・達人を高校生が訪ね、一対一の対話を通じて、その人が培ってきた知恵や技術、働き方や生き方への思いを記録する活動です。名人とは、カヤ葺き職人、造林手、炭焼き、船大工、木工職人、漁師などです。
「聞き書き」の作品は、恩師へのインタビューを書き起こしたものと考えればいいですか?
「聞き書き」の作品は、聞き手がその人に自分を重ね、一人称で語り直す文体をとる点に特徴があります。インタビューの記録を書き起こしたものは膨大な分量になります。その膨大な内容から、聞き手が自分に響いてきた部分を取り出し、恩師が語っているように記述したものになります。
この「聞き書き」に取り組んだ学生の感想は、どのようなものですか?
「聞き書き」の作品の終わりに、取り組んだ学生が何を考えたかを述べています。教職を目指す学生は、教職を目指しつつも、どこかに不安や「もやもや」した思いを抱えています。教員採用試験にむけて教師像を考えてみても、どこか地に足がついていない感じがしています。そうした学生が、恩師の言葉を手がかりに、漠然と抱いていた教職へのそれぞれのイメージを、より輪郭のくっきりとしたものにしています。もちろん、この教職イメージは、実際に教職についてから、さらなる変容をしていくものになります。先行世代の考えを、後続世代は自分の問題意識にそって変容しつつ継承していきます。
「聞き書き」に応じた恩師の先生の感想は、どのようなものですか?
自分の教職人生に改めて語る価値などないのではないかという自信のなさの一方、学生の質問に応えていくなかで、自分が何を大切にしてきたのか、どんな子どもを育てたいのかといった初心や信念に関わる部分が徐々に明確になっていったという感想をいただいています。聞き取りを受けていた時間はあっという間で「楽しかった」という感想でした。 出会いと学びは双方向であるということが、この聞き書きの活動でも見ることができます。 「聞き書き」は、先行世代と後続世代が、それぞれ教職のあり方をさぐる場になっているという意味で、教職の魅力を協働してつくり出す場の可能性をもつと考えています。